史也は相変わらず新聞を読んでいる。全ての記事に目を通すつもりなのか、それともある記事を暗記でもしようとしているのか。いずれにしても私は彼が目的を達するのを待つしかない。
「千紗ちゃん、例の件、どうなった?」
不意にマスターがグラスに水を注ぎながら言った。中の氷が涼しげな音を立てる。
「どうなったって、別に」
「こいつから頼まれてない?」
「うん」
「馬鹿だな。さっさと言えよな」
「どうせ断られると思ってるんじゃない?」
「だけどさ。・・・ ・・・おい、史也」
マスターの声で彼の視線はようやく新聞から外れた。すぐ隣で、しかも普通に話していたのに何も聞こえていなかったようだ。ほんの少しキョトンとした表情が可愛らしかった。
「え、何?」
「何じゃないだろう。お前、千紗ちゃんに頼んでないのか?」
「あ。・・・ ・・・まあ」
「まあって何だよ」
「いや、どうせ断られると思って」
その返事に思わず笑ってしまった。
史也は半年ほど前からマスターに似顔絵の描き方を教わっている。
マスター自身若い頃、つまりは札幌で「D12」を開店する前は路上で似顔絵書きをして生活していたことがあるらしい。スケッチブックと鉛筆、絵具、筆、パレット、水差し、それから最低限の生活必需品を抱えて全国を歩き回っていたのだそうだ。随分前に絵を見せてもらったことがある。こう言ってはなんだが、強面で体格のいいマスターからはちょっと想像できない柔らかい色彩の似顔絵だった。私は絵に関しては素人なのでよく解らないが、そっくりに書くというよりはその人の特徴を捉えた書き方のように見えた。今でもマスターは気が向いたときはお客さんの似顔絵を書いて渡すことがある。相手は勿論、自分好みの綺麗な女の人に限られるけれど。
「この間言っただろ。相方で練習するってのはかなりの効果があるんだって」
「まあ、そうなんですけど」
史也はやや俯き加減で頭をかいている。その姿はまるで師匠に叱られている弟子のようだ。
「でも、どうして効果的なの?」
私が聞くと、マスターは「それはな」と嬉しそうに言った。
「つまりこういうことだ。よく知っている間柄だけに、相手の些細な変化にも気付けるってのがあるんだな。それを捉えることで、似顔絵に味が出てくるものなんだ」
「ふうん」
「しっかり書かなくてもいい。特にこいつは始めたばっかりだから、毎日できれば尚いいんだけどなあ」
そう言われて、史也は首をすくめるようにうなずいた。
似顔絵の向上のためには身近な人で練習するとよい。
ちょっとした相手の変化を感じることができるから。
そういうことか。だからマスターは私に史也のモデルになってくれないかと頼んだんだ。断片的な記憶が一つずつ繋がる。乾いた身体が水を吸収していくような通りの良さを感じながら、私は一人ほくそ笑んだ。
しかし、実際に自分が似顔絵のモデルになるのとは話は別だ。子供の頃から写真を撮られるのは余り好きではなかった。図工の時間に描く自画像も苦手だった。協力したくないというわけではない。せっかく習い始めた似顔絵なのだから、史也には上手になって欲しいという気持ちは勿論ある。しかしながらその瞬間の自分の姿や表情が残されるということに何か逡巡するものを感じるのだ。別に自分の容姿がそれほど劣っているとは思わないけれど・・・ ・・・。
きっと私は時間の流れの中に足跡を残したくないのだ。
ただ当の史也本人はさほど気にしていない様子だった。自分の部屋で有名人の顔写真などを眺めながらせっせと模写を繰り返し、マスターの評価をもらっていた。特に客が私たちだけのときなどはカウンター越しに講義が始まった。
「リアルに描くなら線は出来るだけ細く。重ねていくうちに太くなるから」
「はい」
「似顔絵で大事なのはまず顔の大きさと向きを決めること、それから何と言っても目」
「目?」
「そう。大きさと位置な。それを間違えたら絶対に似顔絵にならない」
「それって当たり前じゃないの?」
「馬鹿。真実ってのはいつも当たり前の中にあるもんだ」
私たちの相槌を端々に挟みながらマスターの話が続く。
目というのは人間の表情を司る部分であり、目線一つにしても感情を表現する上で大きく影響する。だからマスターが目を書くときには一切の手抜きをしないのだという。
「例えばな、自分で納得できる絵の出来栄えの基準を100として、目の出来が80だったとするだろ。すると実際に絵が完成したときに、それ以外のパーツの出来がどれだけ良くても80を越えることはないんだ」
話を聞くに連れて、私は思いも寄らない似顔絵の奥の深さを垣間見るのだった。
そして今も最近描いた往年のハリウッドスターの似顔絵を評価している。箇所に応じて緩急織り交ぜながらの指摘。総合的にはまずまずといったところか。それを聞く彼の仄かに浮かべた表情が印象的だった。手応えを感じているのかもしれない。
そんな姿を私は羨ましいと思う。彼とマスターが似顔絵を通じてある種の信頼関係で結ばれていることや、何よりも彼が加速度を増しつつ上達していることに。その様子を誰よりも間近で感じられるのは嬉しいのだが、ただ見ているだけというのはある種の疎外感を禁じ得ない。例えるならば、私はプラットフォームで乗り遅れた電車を追いかける乗客のようだ。やがて息が切れた私の足は止まる。そして後姿が徐々に小さくなっていくのを見ているだけ・・・ ・・・。
「千紗、どうかした?」
ふと気が付くと、史也が心配そうに私を見ている。
「ううん。何でもない」
「・・・ ・・・そう」
「あ、そうだ史也。ゴメンね、似顔絵のこと」
「大丈夫。別の写真でも練習は出来るし」
私は小さく頷き、水を一口含む。
要は嫉妬心から来るものなのだろう。大好きな史也を独占できていないという、誰にも言えない気持ちの派生の表れなのだ。大げさだと自分でもよく解っている。現に彼は優しいし、マスターだって普段通り接してくれる。私が疎外感を味わう要素はどこにもない。
通りに面した大きな窓から柔らかな日差しが注がれている。夕方というごく短い時
を印象付けるために空の色が徐々に朱に染まっていく。暖かい色だなと思った。
(続く)